記録

古民家を改装した映画館の話

今日はなんだか、心の奥のほうがじんわりと疲れている気がした。
別になにか特別なことがあったわけでもなく、忙しかったわけでもない。
ただなんとなく、心が静かに疲労していることに気がついたんだ。

このまま電車で最寄りまでいくのは億劫で、途中で電車を降りてふらふらと歩いていると、一軒のバーが目に入った。
ちょっと隠れ家チックで、入りづらい雰囲気がする。

普段なら気づきもせずに通り過ぎてしまうような場所なのに、今日はまるで吸い込まれるように扉の前に立っていた。

扉を開けると、落ち着いた音楽と芳醇なお酒の香りが鼻をくすぐる。
薄暗い照明に照らされる壁には、映画のポスターらしきものがたくさん貼られていて、マスターが映画好きであることがうかがえる。
視界の端に、若い夫婦が先客としてお酒を楽しんでいるのが見えた。

空いているカウンター席につくと、マスターから声をかけられる。

「好きな映画はありますか?」
「え、映画ですか・・・」

急に聞かれても困ってしまうが、思いついた映画を挙げてみた。

「”最強のふたり”とかですかね。」
「いいですねぇ。少々お待ちを。」

なんのことかと思って待っていると、カクテルが差し出される。
上品なグラスの中でくっきりと2層に分かれている。

「映画をモチーフにしたカクテルを出しているんです。」

(なるほど、ふたりをイメージして2層に分かれているのか。)

そっと混ぜると色が溶け合っていく。まるでお互いを理解していく2人のように。
一口飲んでみるとスパイシーで明るい風味が口に広がり、後味はまろやかで深みがある味わいに。
”違う世界で生きてきた2人がお互いを変えていく”というテーマを感じる1杯だ。

マスターの腕前に驚きながらグラスに入ったカクテルを眺めていると、先に入っていた若い夫婦に声をかけられた。

「ここのマスターすごいですよね。」
「良かったら、少し話しませんか?」

疲れていた心が安らぐ気がして、「ぜひ」と答えて近くまで移動した。

話していると、2人が”映画館”を運営していると聞いて驚いた。
映画館と言っても、田舎の古民家を改装して作ったちいさなものらしい。
簡易的なスクリーンと椅子が用意されていて、定員は十数人。

「めちゃくちゃ素敵ですね。ポップコーンとかもあるんですか?」
「いや、ウチはポップコーンもコーラも出してないんだ。」

映画館といえばポップコーンとコーラなのに、それ以外に何が出るんだと聞こうとしたら奥様が答えてくれた。

「出すのはコーヒーなんです。上映する映画をイメージして、毎回ブレンドと淹れ方を変えるんですよ。」

「素敵すぎる・・・」
思わず声が漏れていた。
本当に素敵じゃないか。行きたい。行きたすぎる。

「映画を、味覚でも記憶してもらいたいなって思って。」
まっすぐな瞳でそんな思いを語る姿に、声もでないほど感動していた。
いつの間にか疲れていた心に、活力が戻っていることに気づく。

住所は非公開で、知っている人だけが通える秘密の場所らしい。
本業ではないので、上映も月に一回だけだという。

「映画よりも、たぶん”体験”を提供したいんだと思う。」
旦那さんがそう語る。

心に従って入ったバーで、こんな素敵な出会いがあるとは思わなかった。

別れ際、旦那さんから小さなカードを受け取った。
そこには映画館の名前と連絡先が書いてある。

「見たくなったらいつでも連絡して来てください。」

偶然の出会いに感謝しながら、ぜったいに行こうと心に誓った。
気がつけば心の疲れはどこかに消えている。

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