記録

好きなことには、いちいち理由を探さなくてもいいみたいだ

好きなことのはずなのに、いつのまにか楽しめなくなっている。そういう瞬間って、たぶん誰にでもあると思う。

俺が最近それを感じる瞬間があるとすると、それは筋トレだ。

平日の夜、仕事を終えて、少し重たい体を引きずるようにしてジムに向かう。ウェアに着替えて、ダンベルを握る。
ひんやりした金属の感触が手のひらに馴染むころには、さっきまで頭にあった会議の残り香みたいなものが、少しずつ抜けていく。

体を動かすのは、ただ楽しい。続けていれば、体のラインだって少しずつ変わる。この前は持てなかった重さに、今日はなんとか手が届く日もある。
まわりにいるのは、俺よりずっとデカくて、俺の倍くらいの鉄をこともなげに持ち上げる人たちばかり。
その背中を見ているだけで、なんだか自分も少しだけ強くなれる気がしてくる。

——なんて、ハマっている理由は、いくらでも並べられる。

でも、ほんとうのところは、もっとかんたんなこと。

重たいダンベルを握っているあいだだけは、それ以外のことを、なにも考えずにいられる。
頭のなかが、すうっと静かになる。ただ、それだけ。その静けさが気持ちいいから、俺は今日もジムにいる。

ところが。

ダンベルを持ち上げている、まさにその最中に、頭のなかの誰かが、勝手にしゃべりはじめることがある。

なあ、なんで筋トレしてるんだっけ。この種目、ほんとに意味あるの? これ、ちゃんと胸に効いてる?
ていうか、あっちのマシンのほうが効くって、誰か言ってなかったっけ。
というか、隣のあの人、なんであんな軽々と重いの持てるんだろう。俺、いつまでこの重さで止まってるんだろう。

問いは、湧いてくる。ひとつ浮かぶと、芋づる式に、次から次へと。

そうなると、もういけない。頭のなかが騒がしくなって、いつも持ててる重量が持てなくなって、トレーニングは中途半端なまま終わる。
帰り道に飲むプロテインが、いつもより味気なく感じて、ああ、今日はダメだったな、と思いながら夜道を歩く。

逆に、なにも考えず、頭のなかの誰かが黙りこくったまま鉄を上げている日は、時間がどこかへ溶けている。
ちょっとだけ、のつもりで始めたのに、気づけば汗だくで、ずいぶんな時間が過ぎている。

たぶん俺は、「なぜ」と考えはじめた瞬間に、夢中の外側へ弾き出されてしまうんだと思う。

ただ気持ちよく体を動かしたいだけなのに。
いつのまにか、リングサイドから自分の試合を眺める採点員みたいに、一歩引いたところから、自分のトレーニングに点数をつけている。しかも、わりと辛口の。

じゃあ、どうすればいいんだ。その答えは、いくら自分のなかを探しても、見つからなかった。

そんなある日のことだ。

なんとなくスマホでほぼ日のコラムを開いたら、糸井重里さんが、動物園のサル山を、ただぼんやり眺めている、という話を書いていた。研究するでもなく、学ぶでもなく、ただ、たくさん見る。理由なんてない、見ていること自体が気持ちいいから、見ている。それだけのことだ、と。

そして、最後に、こう書いてあった。

「なぜ」「なんのために」ということばの縄が、ぼくらをがんじがらめに縛り付けているのかもしれない。

ことばの縄。

その一行を読んだ瞬間、俺は、あ、と思った。ダンベルを握りながら、俺が俺自身に、せっせと巻きつけていたやつだ。
自分で結んで、自分で締めて、勝手に苦しくなっていた、あの縄。

「なぜ」を突きつめてしまうのは、たぶん、俺のちょっとした癖であり、得意技でもある。
仕事でもそうだし、もう、生まれつきの性分みたいなものだ。
ものごとの理由を考えるのは、きらいじゃない。むしろ、けっこう好きなほうだと思う。

だから、それをやめる気は、べつにない。

ただ、好きなことをしているときにまで、その縄をわざわざ握りしめて、自分をぐるぐる巻きにしなくても、いいのかもなあ。

ダンベルを持ち上げているとき。ページをめくっているとき。家族と食卓を囲んでいるとき。友だちと、どうでもいい話で笑っているとき。

そういう時間は、うまくいっているかどうかなんて、いちいち採点しなくていい。ただ楽しめばいい。

なんで筋トレしてるのか、なんて、ほんとうはどうだっていいのだ。ダンベルを握れば、頭のなかが静かになる。その時間が、ただ、気持ちいい。次の日、体のあちこちに筋肉痛が来れば、それが「昨日、がんばったね」と言ってくれているみたいで、俺はもう、それでじゅうぶん報われている。

……なんてことを、こうして真剣に書いている時点で、「この記事、なんで書いてるんだっけ」と、また考えはじめている自分がいる。

俺の縄は、なかなか、ほどけそうにない。

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