記録

とろ火でも、火は火だ

King Gnu常田大希は、とあるインタビュー記事で、こんな問いかけを受けていた。

音楽と向き合うなかで苦しいときはありますか?
常田大希の答えはこうだ。
締め切りに追われて、ずっと一人で部屋に籠もって曲を作っている。友達と飲みに行く頻度もすごく減って、一人の時間が増えすぎた。
もう、めちゃめちゃ病んでる。躁鬱みたいな感じで、鬱なう(笑)——。笑いながら話していたみたいだけど、すごいことだ。

コロナで何もかも止まった時期にも、彼は「火を絶やしちゃいけない」と語っていた。
ツアーは延期となり、予定はすべて崩れたが、それでも動くのだと。

俺はKing Gnuのファンクラブに入っている。曲が好きなのはもちろんある。
でも本当のところ、俺が惚れているのは、そういうストイックなところだ。

楽しいから続けているんじゃなくて、苦しくても手を止めない。
その、満身創痍で表現を絞り出している姿が、どうしようもなくかっこいい。

たぶん俺は、そんな憧れを「応援するため」に会費を払っている。

なんでこんな話をしているかというと、俺自身が、その「される側」になりたいと思っているからだ。
文章を書き始めた理由も、たどっていくと、そこに着く。

書き始めた最初のきっかけは、稼ぎたいから。
ただ最近、その「稼ぐ」というのが、よく分からなくなってきた。

無料でいくらでも面白いものが読める時代に、お金を払って何かを読む。
これって、思っているよりずっとハードルが高い。
すこしでも財布が軽くなるのは、いくつになっても不安だ。

じゃあ人は、どういう時に払うんだろう。

読みたくてたまらない何かがある時。あるいは、この人を応援したい、と思った時。

俺が財布を緩めるのは、あきらかに後のほうだ。現にKing Gnuに払ってる。
応援している人が成功して大きくなっていくのを見るのは、けっこううれしい。
だから目指すなら、応援される書き手。そのほうが、しっくりくる。

——と、ここまで書いて、気づいてしまった。

俺の行動、そうなってないな、と。

本業は畑違いの仕事。書く力が試される場面はあるけど、俺の言う「書いて稼ぐ」とは違う。
SNSのフォロワーもインプレッションも、少しずつ増えてはいる。
でも、そこまでだ。誰かに財布を開いてもらう場所まで、まだずいぶん遠い。

本当に、稼ぎたいんだろうか。

自分の文章なんて、金を取れるレベルじゃない。心のどこかで、そう決めつけている節がある。
でも、それを決めるのは俺じゃない。読む人だ。出してみないと、分からない。分かってるのに、手が動かない。
レベルが釣り合わずに揉めたらどうしよう。下手な文章だと叩かれたらどうしよう。
夜、布団の中で、そういう想像ばかりが上手になっていく。

——書いて稼ぐことを、本当は目指してないんじゃないだろうか。

もし本気なら、ゲームをしてる時間も、SNSを眺めてる時間も、書くことに注ぐはずだ。
もっと必死にネタを探すはずだ。しないのは、本気じゃないからなのかもしれない。

常田大希は、曲を作るために飲みに行く時間を差し出して、部屋に籠もる。
俺は、そういう日常を差し出すことができない。

憧れている人との差は、才能の前に、まずここにある。

じゃあ、と諦めるかというと、そうもならないのが、我ながら往生際が悪い。

誰に頼まれたわけでもないのに、自分の情熱のなさについて、こうして二千字も書いている。
熱がない人間は、たぶん「熱がない」ことすら書かない。

情熱には、燃え盛るやつだけじゃなくて、とろ火みたいなのもあるのかもしれない。俺のは、たぶんそれだ。
あの人の火は、絶やしちゃいけない火。俺のは、消えない程度の、とろ火。

とろ火はとろ火なりに、火を消さないことだけは、できる。
消さないように今日も、書いている。

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