夜の0時すぎ。
一日のなかでいちばん、しあわせな時間だ。電気を消して、さっきまでいじっていたスマホも枕元に伏せて、目を閉じる。
頭のなかのざわざわが、少しずつ、遠くなっていく。ああ、今日も終わるな。
意識が、深い海の底に落ちていくかのように、下へ、下へと落ちていく。
もうすぐ、眠りにつく。考えごとをしているのか、夢を見ているのかわからなくなる——とそのとき、
ピンポーン。
……え。
とつぜんインターホンが鳴った。
最初は、夢かと思った。眠りの入り口で見る、あの脈絡のないやつ。だから俺は、しばらく、ふとんのなかで固まっていた。
空耳ってことにして、深い海に戻ろうとした。
でも、聞こえてしまったのだ。玄関の外で、小さな笑い声と、ぱたぱたぱた、と走り去っていく足音が。
ピンポンダッシュ。
そう理解した瞬間、さっきまであんなにとろけていた意識が、かっ、と音を立てて覚醒した。目が、冴える。冴えるどころじゃない。
冴えわたる。頭のうしろのほうに、電気がぱちんと灯って、もう二度と消えそうにない。
やられた。
ベッドのなかで、俺の脳内は、静かに燃えていた。
なんで。あー寝れそう、のまさにその瞬間を、狙いすましたみたいに。いや、狙ってはいないんだろう。
あいつらにとっては、ただの通りすがりの、遊びのひとつ。数ある家のうちの、たまたまの一軒。
それが、よけいに腹立たしい。
こっちは、明日も仕事なのだ。ちゃんと寝て、ちゃんと起きて、ちゃんと働かないといけない、しがない大人なのだ。
その大人の、たった数時間の睡眠を、名前も知らないガキが、笑いながら奪っていった。
頭のなかで、俺は金属バットを構えていた。
あいつらを、怒鳴りながら、一生追いかけ回してやりたい。
角を曲がっても、家に帰っても、大人になっても、ふとした夜に思い出してしまうような、そういう恐怖を、植えつけてやりたい。
二度とうちのインターホンに指を伸ばそうなんて思わないように——。
物騒な妄想だけが、深夜の部屋で、やたらと元気だった。
体は、あんなに眠かったのに。心だけが、バットを握りしめて、暗闇でぶんぶん素振りをしていた。
さて、その夜、実際に取った行動を、正直に書こう。
三十路のオトコが実際に握ったのは金属バットなんて物騒なものじゃなく、スマホだ。
そしてAIに、話を、聞いてもらった。
「寝ようとしたらピンポンダッシュされた。ムカつく。眠れない」みたいなことを、深夜に、とつとつと打ち込んだ。
AIは、それはお辛いですね、みたいなことを、やさしく返してくれた。俺は、だろ、と思った。だろ、ひどいだろ、と。
一生追いかけ回すはずだった俺は、深夜三時、暗い部屋で、スマホの明かりに顔を照らされながら、AIに「だろ?」と同意を求めていた。
AIってのはいつなんどきも即レスで俺に寄り添ってくれる。ありがとうGoogle。(おれはこういうときGemini派なのだ)
我ながら、情けない。情けないが、そうでもしないと、やってられなかった。
誰かに「ひどいね」と言ってほしかった。振り上げた拳の、下ろしどころが、どこにもなかったから。
眠れないまま、ぼんやり天井を見ていたら、昔読んだ本のことを思い出した。
草薙龍瞬さんの、『反応しない練習』。お坊さんが書いた本だ。悩みや苦しみは、出来事そのものじゃなくて、それに「反応してしまう心」から生まれる。だから、むだな反応を、しない。たしかそういう趣旨だったと思う。
読んだときは、なるほどなあ、と思った。実際、俺は、けっこうそっち寄りの人間だと思う。
日常のこまごました不快に、いちいち反応しないよう、それなりに気をつけて生きている。
エレベーターで、なぜか絶対に「開」ボタンを押さない人がいても。店員さんにタメ口をきく客を見かけて、ちょっとムッとしても。執務室でブツブツ独り言を言いながら仕事をする人がいても(あれは、なるべく近くに座らないことで対処している)。そういう小さな棘に、その都度その都度、心を持っていかれるのは、もったいない。
イラッとしかけると、俺は、あの本のことをちょっと思い出す。これに反応して、俺の機嫌をひとつ差し出すの、無駄だよなあ、と。この不快な時間を長引かせているのは、出来事じゃなくて、たぶん、俺の反応のほうなのだ、と。
そうやって、ふっと息を吐いて、たいていのことは、受け流せる。受け流せるように、なってきた。
——はずだった。
なのに、俺はいま、名前も知らないガキ相手に、脳内で金属バットを振り回して、AIに愚痴っている。
反応しない練習、まったく、活きていない。
そういえば、と、もうひとつ思い出す。子どもの頃、自分がいたずらをして、相手がなんの反応もしてくれなかったときのこと。
あのとき感じたのは、怒られる怖さより、「なんだ、つまんないの」という、あの、しぼんだ気持ちだった。
反応が、ないと、つまらない。
たぶん、あいつらも、同じだ。
けっきょく、その夜はほとんど眠れず、体感で三時か四時ごろ、やっと意識が落ちた。翌日は、当然、寝不足で頭がぼんやりして、最悪だった。ガキめ、と、一日に何度も思った。
でも、俺は、決めた。
もしまた来ても、玄関には出ない。なんにも反応しない。
だって、反応がないのが、あいつらにとっては、いちばんつまらないはずだから。
いちばんの仕返しは、たぶん、なにごともなかったみたいに、しれっと眠っていることだ。
だから、今夜は、寝る前に、インターホンの電源を切る。
これが、三十路の俺が出した、精いっぱいの答えだ。脳内で握りしめた金属バットをそっと下ろして、そのかわりに、小さなスイッチを、ぱちん、と切る。
……とか言って、冷静に構えたふうを装っているけれど。
正直に言うと、電源を切るこの指は、まだ、ちょっとだけ、怒っている。